ゼロをみつけられなかったのはなぜ?ギリシャ編(1)

古代ギリシャ神話:ヘシオドスの「神統記」からゼロを推測する<キーワードはカオス>

古代ギリシャの宇宙の誕生は、全く何もない無=虚無=0からの出現ではなく、始めに有るものとしての混沌であった

なぜ古代ギリシャにおいて<0>をみつけることができなかったのか、その思想に迫る。まずは、宇宙の生誕から読みとくのがお決まりであるが、オルペウス(教)、ムゥサイオス、エピメデスらの宇宙論1),2)は飛ばして、ヘシオドスの宇宙開闢に焦点をあてたい。そこで、ヘシオドス(前7世紀)の「神統記」について紹介されている著書をみてみることとする。キーワードは“カオス”(Xάoς:chaos:開口、空隙、空虚、混沌)。

G. S. KIRK et al.(内山勝利 訳)2)によると、「全き初めにカオスが生じた。それから次に 万物の常久とこしえなる揺ぎなき座なる、胸幅広いガイア(大地)と、雪をいただくオリュンポスの頂に住まう不死なる者らの(この文は唐突なため削除されてきた。または後からの挿入ともいわれる)2),3)。道幅広き大地の奥底なる、もや深きタルタロス(奈落の底)、そしてエロース(愛)が生まれた。この神は、不死なる神々のうちにあって最も美しき者にして、四肢を萎えさせ、すべての神々、すべての人の子らの胸の内なる精神こころと思慮深い意志を支配する。カオスからエレボス(地下の暗黒の神)と黒いニュクス(夜)とが生まれた。次には、ニュクスからアイテール(上層大気)とヘーメレー(昼日)とが生まれた」とある。

West, M. L.(廣川洋一 訳)3)では、「まず原初にカオスが生じた さてつぎに 胸幅広い大地(ガイア) 雪を戴くオリュンポスの頂きに 宮居する八百万(やおよろず)の神々の常久(とこしえ)に揺るぎない御座(みくら)なる大地 と 路広みちびろの大地の奥底にある曖々(あいあい)たるタルタロス さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロスが生じたもうた。この神は四肢の力をえさせ 神々と人間ども よろずの者の胸のうちの思慮と考え深い心をうち(ひし)ぐ。カオスから 幽冥(エレボス)と暗い(ニユクス)が生じた つぎに夜から 澄明(アイテル)(ヘメ)()が生じた」と、若干の言葉の相違はあるもののほぼ同じである。

寺田寅彦の訳(Arrhenius著)も分かりやすい。「見よ、すべてのはじめにありしものは混沌にてありし、されどその後にひろがれる地を生じ、永久の御座として凡ての 永遠なる神達、そは雪をかぶらすオリンポスの峯に住む神の御座となりぬ。遠く擴がれる地の領土の裾なるタルタロスの闇も生じぬ。やがてエロスはあらゆる美しさに飾られて永遠の神々の前に出で来て、あらゆる人間にも永遠なる神々にも、静かに和らぎて 胸の中深く、知恵と思慮ある決断をも馴らし従えぬ。混沌よりエレボスは生まれ、暗き夜も亦生まれ、やがて夜より(エー)(テル)(上層の純粋な天の気)、と光の女神ヘメーラは生まれぬ、ふたつながらエレボスの仕愛の受胎によりて夜より生まれたり」4)とある。これについて寺田は、古典時代における宇宙始原に関する観念は甚だ幼稚なものであり、天と地が神々の祖先だという考えは原始民族の間ではよくあることである。野蛮くさい詩を批評的に精査しても大した価値はない4)と厳しいお言葉。

この宇宙誕生の初めに「カオスが生じた」ことについて、廣川の訳本3b)では、空隙が生じたこと、万有の生成にあたって、ものとものとを隔てる空間が生じたことを意味する、とある。また、タルタロスと大地の間にある位置する深穴(カスマ)と考えられている。何もない空間ではなく、ある種のもので充満した一種実体的な存在、と注釈されている。しかしながら、内山らの訳本2)では、カオスが生じたとは、天と地の空隙、すなわち天地の分離とみなすべきとの解釈(Cornford, F. M. Principium Sapientiae. Cambridge, 1952)もあるが、単に天と地が分けられたという以上の何か複雑な意味合いが感ぜられるとしている(原初の実在を無から生じたという解釈は論外)。宇宙の形成時には、天と地が一体をなしていたというのは一般的(エウリピデス断片「賢者メラニッペ」、ディオドロス「世界史」)な認識であった2)とのことから、拙者‘おきな’としては宇宙誕生のカオスは、天地の空隙ではなく、始まりとしての混沌と理解したい。

ギリシャの宇宙誕生をローマ人のオウィディウス(オヴィド:Publius Ovidius Naso.前43生)が自身の著メタモルフォセス(Metamorphoses)で詠んでいる。「まだ海も陸もなく、すべてをおおう空もなかったころ、自然のすがたは、宇宙全体にわたって見渡す限りただ茫漠たる広がりであった。それは、混沌(カオス)とよばれ、形状も秩序もないひとつの塊であった。生気のない堆積といおうか、まだ事物としてのまとまりをもたない諸要素が、へだてもなく雑然とひしめきあっているだけであった。・・・大地も海も空気も存在していたけれど、陸は歩くことができないし、海も泳ぐわけにはいかず、大気には光がなかった。それらのどれひとつとして、まずみずからの姿や形をもっていず、互いに反目し、さまたげあっていた。・・・このようないがみあいに終止符をうったのは、自然であった。この神なる自然は、天から地を、地から水をわかち、重苦しい大気から澄み渡った大空を切り離した」5)

オヴィドの開闢説について寺田は、「始めにはただ秩序なき均等な渾沌、“rudis indigestaque moles”があった。それは土と水と空気との形のない混合物であった。自然が元素を分離した。即ち、地を天(空気)と水から分ち、精微な空気(エーテル)を粗鬆そそうな(普通の)空気から取り分けた」4b)と記し、ヘシオドスといくらも違った所はなく、本来の稚拙な味の大部分が失われ、実用的なローマ人の思考過程にふさわしい生真面目な系統化が見えていると評している。・・・ウーム。そうなのか。。。

これらのヘシオドスを基にした資料を読み解くと、神々の出現がメインテーマではあるが、古代ギリシャにおいて考えられていた宇宙の誕生は、全く何もない無=虚無=0からの出現ではなく、始めに有るものとしての混沌(もちろん、量子論における“ゆらぎ”ではなく)があり、それが整えられていく中での万物形成、神、神々の出現となる。これが思想の起源となることから、西欧でも長年続く「無」である“0”を拒否し、“0”を生み出すことのできない足かせとなったと、勝手に想像する。

余談として:神統記のタルタロスについて、プラトンの「饗宴」の中で、「初めにカオスが生じ、しかしてそのあとに、よろずの常盤に安らけき御座である胸幅広きガイアそしてエロースが とある。かく彼は、カオスのあとにかの二柱の神、すなわちゲ(ガイア)とエロースが生じたと言っているのである」6)と、タルタロスについては無視されている。後代での挿入とされることもあるが3c)、カルキディウス(321年頃)の「ティマイオス」翻訳では正しい位置に引用されているとのことである2)

‘神々がオリュンポスに住まう’とあるが、神々が住む山というのが、おいそれとは登ることができない険しい山かと思ってしまうが、そうでもない。海抜2914m(標高2917m)の高さで、登頂もできる観光地となっている。岩肌、山々は面白い形状をしているが、どこから神々を連想したのかが気になる。ひとつ、オウィディウス著5)で「蒼穹の火と もえる力は、天の一番高いところに翔け昇って、そこに居をさだめた」とあり、古代人は天候現象のおこる空気圏の上にさらに軽い、けっして汚れることのない気層(上層大気)がある、と信じていたらしい。それは天の最上部の光かがやく部分でエーテル(アイテール:アエテル)と呼ばれている。この地域の最高峰で、空気の澄み渡るオリュンポスの頂をエーテルとして思いを馳せたのは分かる気がする。

ゼロの思想を追っていたらヘシオドスまで来てしまった。哲学者でも歴史学者でもありません。勝手な空想による暇つぶしのささやきです。⇼⇸⇺おきな⇻⇼⇸

参考・引用文献

1)内山勝利 編集.ソクラテス以前哲学者断片集 第Ⅰ分冊.内山勝利・国方栄二・藤沢令夫・丸橋裕・三浦要・山口義久 訳.岩波書店

2)G.S.カーク,J. E. レイヴン, M. スコフィールド著.ソクラテス以前の哲学者たち.内山勝利、木原志乃、國方栄二、三浦 要、丸橋 裕 訳.京都大学学術出版(引用は第1章)

3)ヘシオドス.廣川洋一訳.神統記.p21-22、3b)p130-131、3c)p131.岩波書店(底本:West, M. L., Hesiod Theogony, Oxford, 1966). 

4)アーレニウス(Svante August Arrhenius)著.寺田寅彦 訳.史的に見たる科学的宇宙観の変遷.p38-40、4b)p43. 岩波書店.

5)オウィディウス.転身物語(Ovidius. Metamorphoses).田中秀央・前田敬作 訳.巻1.ニ. 世界の創造.p7-8.人文書院

6)プラトン全集5.饗宴 パイドロス.鈴木照雄・藤沢令夫 訳. 岩波書店(引用は「饗宴」.六.p21)

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